元日、初詣 神社よりもお堂を開放している渋いお寺【私のおすすめ】

随想
木村 邦彦

法政大学文学部哲学科卒。記者、編集者。歴史、IT、金融、教育、スポーツなどのメディア運営に携わる。FP2級、宅建士。趣味はエアギターと絵画制作。コーヒー、競輪もこよなく愛す。執筆のご依頼募集中。

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さい銭箱の前で願かけ(東京都内のお寺、撮影=筆者)

出歩く人や走る車もまばら。2019年元日の空気は清浄で、ビルやマンションなどが狭苦しく建ち並ぶ東京の町並も心持ち広く見えてくる。

夫婦で町をのんびりと歩きながら、毎年初詣に向かう寺がある。私はどちらかといえば、神社よりも寺の方が好きだ。というのも、神社の神様は誰なのかいまいち分かりづらい。新年早々、もやもやした気分になる。

その点、寺は割にはっきりしている。東京都内の市街地にあるこの寺は真言宗だ。いまから千年近く前の草創だという。さい銭箱の向こうには弘法大師(空海)がいると思うことにした。

祭壇を前にした薄暗いお堂

仏堂を開放しているお寺にはとりわけ心躍る。古めかしいお堂に上がり、さい銭箱に小銭を投げ込むと、畳の上に座って歩き疲れた足を休めた。

薄暗い空間は渋い趣がある。畳縁に紋縁(もんべり)を使用した高級そうな畳が敷かれている。直線的・対照的に調和がとれて美しい。まるで、スタンリー・キューブリック映画にでてくる構図のようだ。

四半刻(30分)ほど、妻とたわいもない話などをした。

「お寺の山門前の駐車場は、隣にある銀行も使っているみたいだね。お坊さんが銀行に土地を貸しているのかな」とか。

檀家が減れば布施も減る

いまや、お寺の経営もマネジメント能力が問われている時代だ。江戸幕府の政策から続く檀家制度は維持が限界にきている。檀家として寺を支えようと意識する人は減ってきているようだ。宗派にとらわれず仏閣めぐりを楽しむ私もその一人なのだが。

都市化や過疎化が進み、核家族や単身世帯が増えて、地縁・血縁の結びつきが薄れた。寺の運営を支援する檀家からの布施も減る。檀家制度に依存する運営だけでは寺の継続は難しい[1]

寺と人々の弱体化した結びつきを象徴するのが「除夜の鐘」をめぐる「騒音」苦情だ。

「いつまでやっているんだ!」[2]

除夜の鐘を「生活騒音」と捉える近隣住民からのクレームがあれば、年中行事の維持もままならない。寺や僧侶と人々の関わりが薄れて、昔ながらの行事の捉え方も変化する。寺のありようは川の泡のように消えては現れ、現れては消え、同じ姿であり続けることはない。時代とともに変化する。まさしく世は無常だ。

磨き上げられた木の廊下

物静かな陰影にいると、気持ちや感情も落ち着いてくる。お寺の古いお堂は居心地よい癒やしスポットだ。長い年月をかけて磨き上げられた木の廊下は、歴史の重さを感じさせる渋い輝きを放っていた。(写真も筆者)


【脚注】

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