進撃の巨人

「進撃の巨人」はエヴァンゲリオンを超えたのだろうか?

レビュー
木村 邦彦

法政大学文学部哲学科卒。記者、編集者。歴史、IT、金融、教育、スポーツなどのメディア運営に携わる。FP2級、宅建士。趣味はエアギターと絵画制作。コーヒー、競輪もこよなく愛す。執筆のご依頼募集中。

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 アニメーション『進撃の巨人』の最終回を観た。この物語において、アニ・レオンハートが「巨人」である必要はあったのだろうか?「女型の巨人」(アニ・レオンハート)が登場したおかげで、他の巨人たちの存在がとても弱々しく、脅威も薄れ、不気味感すら薄れてしまった。「女型の巨人」が登場する以前の巨人たちの存在感は、不気味で、不快で、異常で、狂っていて、そしてとても魅力的だった。

 「女型の巨人」登場以降、調査兵団がバタバタと倒してゆく巨人たちを観ていると、この巨人たちは人類にとって、本当に脅威なのだろうかと思えてしまう。物語において、「女型の巨人」は巨人の“象徴”のように描かれるようになる。「女型の巨人」を倒せば、人類は巨人に“初”勝利した、かのような展開である。

 「女型の巨人」は、知性があるようであり、とても人間的だ。したがって、不気味でも、不快でも、異常でも、狂ってもいなそうである。

 『進撃の巨人』の世界では、カフカの「変身」のように、理由も原因も見つけられず意味の無い生と死(=この現実世界)が描かれていたわけではなかった。この物語において、謎には答えがあり、原因には理由が用意されているかのようだ。

 コミュニケーション不可能な巨人に対する人類という、ただこれだけの構図だったなら面白かっただろう。人類の誕生が不明なように、巨人がどのように誕生したのかは、必ずしも説明は必要はないだろう。むしろ、その方がリアルであっただろう。この点で、『進撃の巨人』で描かれた巨人は、ひとつ世代前のアニメーション『エヴァンゲリオン』の「使徒」の描かれ方よりも説明的だったようながする。

 巨人化したエレン・イェーガーと女型の巨人の闘いは、痴話げんかのようだった。ウルトラマンと怪獣の闘いのようで凡庸だった。もっと、理由や意味のない生と死、原因も理由もない不幸、報われない努力…など、この現実そのものの不条理を、描ける可能性があったのだと思う。そうすれば、もっと広大なこの現実を転写することができただろう。そして、『エヴァンゲリオン』を超えることもできただろう。

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