哲学

東浩紀『観光客の哲学』をてがかりに 個人の悪趣味もダークツーリズムになりうるか?

学びと読書
木村 邦彦

法政大学文学部哲学科卒。記者、編集者。歴史、IT、金融、教育、スポーツなどのメディア運営に携わる。FP2級、宅建士。趣味はエアギターと絵画制作。コーヒー、競輪もこよなく愛す。執筆のご依頼募集中。

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チェルノブイリ4号炉(資料写真)

※本稿は2017年7月21日公開した記事を再構成したものです。

「すごい」や「ふつうじゃない」世界をなぜ訪れたくなるのか? 想像を絶する世界を前にすると、頭の中が真っ白になります。こうした経験はよくあることかしれません。

「すごい世界」や「ふつうじゃなさ」とは、理解できない異次元に引き込まれる体験です。理解できないため、思考が停止。これは、一種の瞑想状態に近いもので、癒しにつながります。

 例えば、野球の奇跡を見るようなファインプレー、うっとりする音楽、水平線の向こうまでさえ遮るものがない海、人を寄せつけない山頂、晴れた空、誰にも真似できない芸術…。

 こうした霊験あらたかなことだけが「すごい世界」ではないことに気づきます。例えば、ゴミ屋敷もその一つです。

【ゴミ屋敷に行ってみた】大量のゴミで内部からジワジワと崩壊するお家!
先日にお伝えした近所のゴミ屋敷。どう見ても、もう住めなそうなお家ですが「住める」「住めない」が争点になっているようです。

 取り返しのつかない「ふつうじゃなさ」がゴミ屋敷です。意図せずに出現し、「説明的」であることを拒絶した創造物。人がやってしまった原因・理由不明なモニュメント。「なんなんだ?」「なんじゃこりゃ?」「いままで見たことがない」。

 ネガティブな印象を与える世界観も度を超すと、優れた美術作品になることがあります。ズジスワフ・ベクシンスキーの絵画作品への驚きと似ているかもしれません。ゴミ屋敷の狂気は破調の美学なのです。

 私はめまいがする驚きを求めて、ついついゴミ屋敷をめぐってしまいます。ほとんど1人ですが、ときたま妻が同行することがあります。

 ゴミ屋敷ツアーのアイデアに近いものを、東浩紀さんは『ゲンロン0 観光客の哲学』で、戦争や災害など「悲劇の地」を観光の対象とする「ダークツーリズム」に感じました。

「ダークツーリズム」は二次創作(「風評被害」と呼ばれることもある)されてしまった悲劇の地を、実際に観光してもらうことにより、「想像していたよりもはるかに「ふつう」だった」(p155)ことなどを体験するものです。

ぼく自身も最初にチェルノブイリを訪れたときには、幼稚な幻想しか抱いていなかった。ひとは、自分が「ふつうではない」と思いこんでいた場所に赴き、そこが「ふつう」であることを知ってはじめて、「ふつうでない」ことがたまたまそこで起きたという「運命」の重みを受け取ることができる。「ふつうであること」と「ふつうでないこと」のその往復運動こそが、ダークツーリズムの要である。

出典:『ゲンロン0 観光客の哲学』(p.57) ※赤字は引用者による

 はたして、私が個人的な悪趣味でやっているゴミ屋敷めぐりツアー(自分が「ふつうではない」と思いこんでいた場所に赴き、そこがやっぱり「ふつうではなかった」ことに放心すること)は、「ダークツーリズム」なのでしょうか?

「ゴミ屋敷めぐり」はダークツーリズムになり得るか?

 ゴミ屋敷の驚きは、自分が「ふつうではない」と思いこんでいた場所を訪ね、そこが(期待したとおり)「ふつうでない」ことを知ってはじめて、「ふつうでない」ことがたまたまそこで起きたという「運命」の重みを受け取ること。行ってみたら、ふつうの家だったのでは、ゴミ屋敷めぐりの下品な興味を満たせません。ダークツーリズムの着想とは似て異なっています。

 ダークツーリズムには、悲劇物語として、前もって二次創作されている必要があるようです。「サザエボン」も有名な「サザエさん」と「バカボン」があってこそ。しかしながら、こうした担保がない「悲劇の地」の例を、もうひとつ一つ例を挙げてみます。ここで改めて気づくのは、「二次創作された」という意味には、「風評被害にあった」以外にも、「有名なところ」「話題性がある」という意味を含んでいることです。

 私の故郷、宮城県。名取市(なとりし)にある閖上(ゆりあげ)という小さな町は、赤貝で有名な港町でした。今は津波で流され、荒涼とした野原になっています(執筆当時)。かつて、ここに人々が住み、商店街があり、魚市場があり、釣り人たちで賑わっていたようには見えません。

閖上港にて(2011年7月16日、写真:筆者)

(写真:筆者)

 かつての町の姿を知っていれば、たしかに東さんが言う「ふつうでない」ことがたまたまそこで起きたという「運命」の重みを受け取ります。しかし、311以前の風景を知らない妻は、この地を訪れても、昔から野原だったようにしか見えないようです。

 閖上は、悲劇の地として、世界的に知られているわけでもありません。二次創作に相当する物語も見当たりません。その点、チェルノブイリや「フクシマ」は「二次創作」「風評」を今と比較する装置に変えて、悲劇物語として成立しています。ダークツーリズムを行える悲劇の地は、案外限られると思いました。

 ダークツーリズムは世界に知って欲しい悲劇を訪ねる旅です。一方、ゴミ屋敷めぐりは、世間から隠したい恥ずかしいものを眺めに行く、のぞき見趣味がない交ぜになった下品な旅です。ダークツーリズムの高尚さとは真逆でありまして、下品の骨頂なのです。

 その目的は観光なのか、教育なのか? ダークツアーリズムが、公人の企画として成立するためには二次創作をむしろ必要とします。それらの地を訪れる人たち、例えば広島の原爆ドームを訪れる人たちの姿に、悪趣味性をあまり感じません。観光というよりは、教育事業に近い印象がします。そして、その参加者は観光客というよりは、修学旅行(sightseeing)の生徒に近い印象がします。

 わが身を振り返れば、悲劇の地全般を訪れたくなる心のどこかに、悪趣味ややじ馬根性があります。ピアニストのミスすることをひそかに期待して、リサイタルに足を運ぶよこしまな観賞者のように。

 旅をしたいと思うことがあります。日常と切り離された世界に身を置き、驚き、瞑想状態に身を置きたいときです。「なぜ、これが、いまここにあるのだろう」。瞑想状態を求めて、想像を超えたものを目の前にし、やじ馬たる私の頭の中は真っ白になるのです。

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