80年代仙台の袋原・四郎丸 地元少年野球の監督は居酒屋店主、コーチは常連客だった

歴史
木村 邦彦

法政大学文学部哲学科卒。記者、編集者。歴史、IT、金融、教育、スポーツなどのメディア運営に携わる。FP2級、宅建士。趣味はエアギターと絵画制作。コーヒー、競輪もこよなく愛す。執筆のご依頼募集中。

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イラスト:キムラクニヒコ

野球に魅了されていた少年時代。宮城県仙台市を流れる名取川下流域にある四郎丸・袋原地区の少年野球チームに所属していました。ポジションはピッチャーで、背番号は24番です。当時巨人で活躍していた中畑清選手と同じ背番号だったので、大変誇らしく感じていました。

1980年代にティーンエージャーだった私は父の影響もあり、大の巨人ファンでした。地方都市の住民はテレビ中継で野球観戦をし、購読できる新聞も読売新聞か地方紙ぐらい。巨人戦を中心にテレビ番組や新聞紙面が組まれています。こうした環境にいると、巨人びいきになってしまうかもしれません。

少年野球の監督は強豪校・仙台育英高校野球部のOBで、働きざかりの40歳代。当時この四郎丸・袋原地区には低層長屋タイプの市営団地が建ち並んでおり[1]、この地域の住民たちを相手に小さな居酒屋を営んでいました。

打撃コーチは監督が「スカウト」してきた店の常連客でした。いま思えば野球の素人で、この人が球審になるとストライクゾーンは毎回変わります。こうした野球好きのおじさんたちは毎日放課後になると小学校の校庭に現れて、野球少年たちを集めて指導をはじめるのでした。

1971年から1974年にかけての第二次ベビーブームで誕生した子どもたちは1980年代に小中学生となっていました。一学年には40人学級が7クラス前後あったと記憶しています。当時の袋原・四郎丸は子どもたちの遊ぶ声が街あちこちから聞こえてくる、とてもにぎやかな地域でした。

現在、この地域には長屋タイプの市営住宅はなく、中高層のモダンな建物に建て替えられて街並みは変わりました。所属していた少年野球チームもインターネット検索で見つけることはできませんでした。

少子化が進んだことに加え、子どもたちの夢も多種多様化していることでしょう。


【脚注】

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