トマス=アクィナスさんの理屈と屁理屈の神哲学【わたしも哲学第42回講座】

随想
木村 邦彦

法政大学文学部哲学科卒。記者、編集者。歴史、IT、金融、教育、スポーツなどのメディア運営に携わる。FP2級、宅建士。趣味はエアギターと絵画制作。コーヒー、競輪もこよなく愛す。執筆のご依頼募集中。

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「理性と知性とは何でしょう?」 講師の酒井佑真さんは参加者に問いかけます。参加者の6人の大人は「うーん」とうなりました。

トマス=アクィナスさんの理屈と屁理屈の神哲学

12月22日、気まぐれ八百屋だんだん(東京都大田区東矢口)で開かれた「わたしも哲学~高校倫理のおさらい~」の第42回講座に参加してきました。今回のテーマは「トマス=アクィナスさんの理屈と屁理屈の神哲学」。スコラ学の代表的神学者であるトマス=アクィナスの哲学を切り口に、6人の参加者が意見を交わしました。

「フェローシップだんだん」は子どもの居場所作りや学習会活動などに取り組む社会教育関係団体。同団体の講師・酒井佑真さんのICTを活用した発表は、クイズを織り交ぜるなど参加者を飽きさせない工夫を感じさせました。予習なしで参加できます。

今回のトマス=アクィナスはイタリアを中心に活躍した哲学者。イタリア出身の哲学者と言えば、アントニオ・グラムシなどを思い出すものの、英独仏に比べると同国の哲学者・思想家は珍しいかもしれません。

理性と知性とは何でしょう?

酒井講師は参加者に問いかけます。「理性と知性とは何でしょう?」 参加者の6人の大人は「うーん」とうなってしまいました。しばしの沈黙の後、参加者からは「理性というものは知性よりもちょっと幅が広いのでは。より深いというか……。知性を包み込むようなものが理性」「私は逆に、知性の方が広くて、知性のなかに理性がある。理性というのは論理的に考える力を理性というじゃないかと思う」--などの意見が出ました。

トマス=アクィナスはアリストテレス哲学を用いてキリスト教神学を体系化。理性による諸学(哲学)と信仰による神学との区別と調和を目指しました。

理性」と「知性」を明確に線引きすること難しいものがあります。それでもトマス=アクィナスの哲学においては、▽理性とは分析的に思考する能力、論理的にな能力、▽知性とは全体を直感的に把握する能力、経験を積んで学んでいくこと、のような使い分けが見られます。人間はどうしても理屈で考えてしまうのですが、神は人間のような理性は持たないと論じているようです。

トマス=アクィナスが言う「希望」には、神の与える永遠の至福という光源から自らの人生が照らし出し直されることという意味があります。この逆は「絶望」であり、後の実存哲学のキルケゴールなどの理解にも繋がってくるのかなと思いました。

 

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